おいしくて傷つかない

 誰かの特別になることが何者かになることなのか?

 日頃から社会に面していると終わらないゲームをしている気分になる。このゲームの勝利条件はただ一つ。健康で生き延びること。ここでは捨て身でくたばるまでなんてもってのほかで、魂を摩耗させず全員の人間に半身で関わり、自分をここからうまく逃すことに戦い方を絞る必要がある。

 自分すら忘れている自分がいて、地下鉄で電車を待っているときなどにふと記憶が蘇り、そうか自分はこんなことを思い、これをしていたのかと自己理解にも他者理解にも似た不思議な感覚に陥ることがある。ぐら、と価値観がゆらぐような「もどってきた」という身体感覚で、電車の到着で吹き抜ける風が新しくなった私の身体を冷やしていく。

 

 頭の中で私は、蝉時雨が耳を聾するなか、汗を拭って歩いている。猛暑の夏だ。何の目的があるかはわからないが、私は歩いている。みーんみーん、みーんみーん。音の壁に威圧されるなか、これはもしかして正気を失った方が楽かもしれないと思う。そんなとき、土ぼこりが巻き上がる道で、遠くから歩いてくる人物に「おーい」と手を振られる。「おーい、おーい」

 炎天下、逃げ水のようにゆらめく人影の詳細はわからない。いつから視界に入ってきたのかもわからない。あぁ、誰だろう、どうしてあそこから歩いてくるんだろう、あっちには何もないのにと思いながら歩くのをやめない。一時停止できないビデオのようにゆっくり、どんどん近づいていく。遠くからの人物はこれだけ近づいてもまだ揺れている、顔の部分がゆらゆらしている。とてもへんだ。そしてすれ違う瞬間にやっと理解する。見たことがある仕草で汗を拭うこの人は紛れもない自分で、それに気づいたとき見ていた私は消え、「おーい、おーい」と呼ぶ方になる。また何も知らない私が向こうから歩いてくる。

 以下、繰り返し。

 

 思うゆえに我あり、なのではなく我があるゆえに思う。途切れる記憶の連続体。そして思っていたこと、連なる我を時々忘れてしまうとしたら?

 

 昔記憶にまつわる本が好きでよく読んだ。その中で特に印象に残ったのは数分間しか記憶が持たない患者と、完全記憶装置を作る社長だ。完全記憶装置は簡単に言うと自分が見た、聞いた、体験したことの全てを映像、文章という記録に残した外付けハードディスクの脳を想像してほしい。

 

 彼らには面識がない。一方の記憶は何にも記されず数分で消え、他方の記憶は永遠に残る。本で読んだだけのわずかな彼らの言葉を探りながら、この二人がお互いに知り合っていて、お互いの記憶を存続させる世界を作り上げていたら、とつい考えてしまう。社長と患者は完璧なまでの中心と周縁で、きっとお互いの線は交差しない。時間と距離と階級とで隔てられた二人の共通点はただ一つ、記憶への意図せざる偏愛に絡め取られていること。自分だけの記憶が蓄積されていく装置は非常に孤独ではないかと思う。だから、孤独な社長のささやかな人生の伴奏者として数分間で途絶える記憶の蓄積を装置が覚えていてくれるといいのに。

 彼らが撮った映像や資料や写真は、いつしか平行線を超える対話となり、また誰かに伝わる可能性を持つ。なによりたとえ数分間でも自分が見たものを記録できる可塑性を装置によって得ることができたなら。  

 別々の場所で撮られた窓から射し込む光と朝にさえずる鳥の映像。ここに過不足のない幸福な関係があると思う。

 

 そんなことを考えながら仕事へ向かうため、ひどい土砂降りのなか歩いていた。あ、こんな土砂降りの雨に降られている斎藤工を前に見た、と思った。すごい前に見た昼顔で。なんか上戸彩と出会った末に意気投合して相合傘してた気がする。記憶違いかな、いやでも確かに見た。自分は何者かになりたいんじゃない、雨に濡れながら主婦をすけこます斎藤工になりたかったのか。気づいた途端なんかなさけねーとも思ったけれど笑えてきた。空気が抜けるような「へっ」という笑みを職場の休憩室に貼られた講演会のポスターに載る仏頂面の政治家を想像して浮かべた。やつらは決して笑わない。そしてそれを偉いと思ってやがる。映画版のあらすじを聞いたが、人倫から逸脱した生物教師と主婦は倫理からの逃走を突き詰めてハッピーにはならず、斎藤工は子供を残して奥さんの事故を装った心中に巻き込まれるらしい。なんだかメスのカマキリに食われるオスカマキリみたいである種の敬意を持った記憶がある。それでも向こうから歩いてくるのは顔がゆらゆらしている人よりは上戸彩の方がいいに決まっている。何億倍もいい。

 

 休憩室でコーヒーを啜りながら昼顔のあらすじを検索したけれど二人の相合傘の事実はなく、おこぼれにあずかっていたのは同僚の方だった。記憶なんてあてにならないもんだ。うーん、もうひとりなりたいとしたら、と考えて強盗に「努力してる」と言い放ち腐れ稼業から脱却したサミュエル・ジャクソンを思った。誰だって善人になりたい。働くと汗をかく。その湧いてくる垢をこすり落とす受難者としての洗練がこの言葉にはある。まだ駆け出しのワナビー・サミュエル・ジャクソンとして「努力するよ」と言っておく。