健康ミネラル

 市役所に行きたくねえ。理由は自分に正当性がこれっぽっちも無いため、行くだけでへりくだるような、阿るような感覚に陥るからです。討ち入りと同じような意味合いを自分に付与しなければ、社会性に負けてしまうからです。
 私は死ぬ思いをする前に最近まで誤ってポーンハブとか読んでいた動画サイトのことを思った。そういえば画竜点睛もがりゅうてんせいと読んでいた。馬鹿野郎。不純な春爛漫でも観測しようかな、と思ってやめた。というのも上司から出勤命令が来たから。明日、15時出勤お願いします。という簡潔なLINEへ業務的に返しながら、俺はもうおしめえだ。叫びたくなる気持ちを飲み込んだ。殺してえ。そして倫理に則って必ずあなたを救いたい。
 放り投げたスマートフォンが、マットレスでぽーんと少し跳ねたかと思うとぶい、と虫の羽音のような不細工な音を立てた。Kからの連絡だった。まあ、こんなんでいいか。そういう舐めた態度でいると市役所で破滅するに決まっているから、ちゃんとした格好をして鏡の前に立ち、気が狂いそうになった。なしくずしで生活を絶たれた刑事みたいな格好をしている。都市生活者、郊外労働者、お役所、頭の中の狂気、一般市民、公共の奉仕人、公共の利益に資する、資するな。
 なんや私は一生この身体からでれんのか。ぼわぼわする、という言葉を最近私は使うようになって、それは自分の身体感覚と外界の境界が気味悪く感じられるという意味を持っていた。昨日は非常にぼわぼわし、以前好意を寄せていた女に側溝に浮いている小銭を数えるような目で見られ、見た映画の女は娼婦としての誇りを汚され、殺人を犯しついには人間性を喪うに至った。私としては、一時の気の迷いで立ち上げたピザ屋が倒産しかけ、家を失う間近という局面にあった。
 動物園行ってきた。
 Kさんが第三者からイカレていると公言されている。「あの人ちょっとおかしいからな~」と男の事務員が言っているのを聞いたことがある。穴が空いて綿が飛び出したソファに座り直し、沈潜するように暮れてゆく室内で私は、無論どうにもならずほぼ毎日送られてくるKさんの日常を今日も見た。送られてきた動画は三件だった。一つは檻の中で徘徊している雌のトラ、二分空けて清掃のために猿山で放水されてる猿と流れてゆく彼らの餌、同時刻にガラス越しに群生するフラミンゴの動画。困惑する。私はなにか詩情や無常感というものを持って、三件の動画を見直した。意味がわからない。
 私は彼女に尋ねたかった。なぜ虎、猿、フラミンゴなのか。もしかしてその三匹が好きな動物ベストスリーなんですか。こんな動画を毎日送ってくるのは本当に頭がおかしいからですか、もしくはさみしくてどうにもならないからですか。
 
 Kさんは一言で言うと愛を乞うている。昨年度の十月、葬儀場の後輩としてKに初めて会った時、弾丸のような速度で喋りまくっていた。数週間後、彼女はバックヤードにしゃがみ込み焼香箱を割り箸で整えながら、あの時はおかしかった、つまらないことをした。初対面のあなたに別れた男たちの話をするなんて。「今はあんなことしない」スカートについた香炉灰をほろいながら「くそ」と立ち上がる。私はほこりっぽい床に落ちてくたくたになった布巾を拾い、水に染みさせるために蛇口を開いた。耳障りのする音を立てて冷たい水が流れる。もし溝水が出て来れば救われるものを。消毒された清流がなれ果ての滝壺のようなシンクを叩いた。表の祭壇から念仏が聞こえる。不思議なほどどこか遠いところでKの喉が鳴ったような気がした。
「私についての噂をみんなが言ってるでしょ」
「さあ、聞いたことないね」
「おかしいって言ってる」
「実際言ってるところは聞いたことないよ」
 嘘だった。あの四角い顔をした男の事務員の悪意を伝えるのが本意ではないだけだ。むかつくほど粗野な男の歪んだ性欲の片棒など担ぎたくなかった。
「今は憂鬱で、最悪な気分なの。私が今までした行いの報いをこの最悪な気分で受けてる」
「そう、災難だね」
「災難なんてもんじゃない。どうしてわかってくれないの?」
 分かりすぎるほど分かりますよ、あなたが何を求めてるのか。ありきたりの同情を撥ね付け、他者からの真心こもった親和を求め、むしろ誰かとの抜き差しならない関係の中で延々と贖罪しているのが好きなKさんにとって、劇的な何かを望むのは当たり前のことだった。しかも今ここでだ。私が彼女の要求に応えることは容易なように思えた。汚らしい雑巾をシンクに投げ入れ、まだ綺麗な方の手で彼女の後頭部をそっとこちらに抱き起こすだけでいい。幸い、今夜の宗派の読経は長く、まだ坊主の独演会も始まりはしない。あの事務員の写真を灰皿に沈め、二人で燃やしている所を想像した。彼女が好きなのか、あの男が嫌いなのか私には分からない。けれど。それではあまりに陳腐だろう。
「その靴いつから履いてるんですか」
「え」
 顔を顰めた彼女は自分の要求がふいにされたことを感じ取った。誰かの顔色に過剰に敏感なKさんがもう一度私に願うことはないだろう。なによりも不気味なのは靴に言及してきたことだ、そう言わんばかりに「この仕事始めた時だから…あー、半年前?」そんなこと知って何になるの? まつ毛をぱしぱしさせながら焼香箱の灰にまみれた靴に触れる。
「元気がないなら拭いてあげようかと思って」
「えー……」
 一瞬、一瞬だから。下手に出て頼みこんだ私をこの人は履き潰しかけた靴を好む珍しい新種の貝なのか? 疑るような目で睨め付けた。
 数秒の逡巡の末、「綺麗にできるの?」その場にしゃがんだ。
「別に立っててくれていいんですよ」
 私は靴磨きの少年よろしくその場に跪き、ティッシュに水を浸して彼女が履いている仕事用のハイヒールを拭いた。同じ視線が交わるところにいる二者が奉仕と享受の関係にあるのは奇妙に感じられた。白く擦れて傷ついた部分はやはり拭ってもとれなかった。靴用クリームなんてないバックヤードでいつもその灰が気になっていた。
 ぶかぶかの靴で、彼女のかかとは擦り切れていた。今日はまだマシな方だ。破れたストッキングに血が滲んでいることもあった。ここにいると、その傷を思うのに、帰り道では足の痛みすら考えるのに、家に帰ると擦り切れたハイヒールを忘れてしまう。ばんそうこうを渡すというその場限りの手当ては、あの事務室の事務員がわざとらしくやっていたからやめた。わざわざ仕事帰りの彼女を呼び止めて。何度も。
「終わりました。すみませんね突然」
「靴ちょっと綺麗になった」
「買い換えた方がいいですよ」
 ここからまだ逃げないのなら。あなたの傷が誰かに塞がれる前に。彼女の胸ポケットからちゃりんと小銭が三枚出てきた。「あげるね」手のひらに小銭が落とされて、Kさんが気まぐれに喉が渇いたときに買う飲み物用の小銭を渡してくれたのだと気づいた。いつも飲んでいる大柄の麦茶を軽く三本は買える金額だ。硬貨は熱を持っていた。
「ここから逃げたい。でも私はどこに行っても逃げたいって思う。だからここにいるの」
「あそこから逃げたらいいよ」
 裏口の鍵はいつでも開いている。
「逃げないよ寒いから。スマホも財布もロッカーの中だし」
「ちなみにどこに逃げたいんですか。世界の果て?」
「世界の果てはなにもないから、砂丘に行って古代の骨を見たい」
 案外ロマンチックなんですね。砂丘に寝そべるKさんを思い浮かべて私はぼんやりと彼女を見た。彼女の虹彩に散る薄暗い天輪を見つめていたときバックヤードと葬儀場をつなぐドアが開け放たれ、宴会の喧騒が飛び込んできた。

 次に出勤するとき彼女はバイトを辞めていた。予想していた、と自分に言い聞かせたが、読経を聞いても、参列者に頭を下げるときも安堵とも喪失感ともつかない感情が恐ろしく込み上げてきて、新しいバイトの子が瓶ビールの箱を落としてしまったとき、手伝いもしないのに舌打ちをした事務員をつい殴ろうと思った。拳を握りしめたところでちゃり、とポケットに入れていたがまぐちの中の三百円が鳴り、やり損ねた。それじゃあ、あの時私と逃げてくれてもよかったじゃないか、誰に言うでもなく心中でそう叫んだが、そう簡単に絶望できなかった。
 流転の末にピザ屋を始めた。なんだか馬鹿みたいと思いながらピザを焼き、接客するかたわら、かりかりに焼き上げたポテトを食べた。鳥取県るるぶを片手間に眺めていたからそう儲からなかった。そしていま、市役所の笑えないくらいださいモニターを敬虔に見上げながら、また蠅の羽音のような振動を感じた。そういえば道中に自動販売機があったことを思い出し、私は一端の生活者ぶった格好に着替えうつむきながら市役所まで歩いた。数万人が腰掛けてきたパイプ椅子に座り、祈るように接続していたイヤホンから新雪を踏み分ける音を聞いた。
「今さ、砂丘にいるよ」
 新しい動画だった。お守りのように600mlの麦茶を握りしめて砂の広がる画面をタップした。
 彼女の新しい靴は歩きやすそうなスニーカーだった。
 私、けっこう元気だよ、
 モニターに自分の番号が表示されたので行くことにした。スマホをポケットに滑りこませ空いた手で密かにピースサインを作った。